次の日、私は朝からハイテンションなヘンリーを相手にしつつ、静かに怒りを放つ龍をなだめ続ける作業を繰り返す。
なんとかこの朝を乗り切った私を、褒めてあげたい気分だ。
ヘンリーを学校へ連れていくわけにはいかないので、私が学校へ行っている間はこの家で大人しくしてもらうしかない。
確か今日の夕方、祖父が旅行から帰ってくる予定だ。ヘンリーのことはそのとき祖父に説明しよう。
私は目の前でニコニコと微笑むヘンリーに向かって、真剣な表情で言い聞かせる。
「じゃあ私は出掛けるけど、この家から絶対に出ちゃ駄目だからね。
家では自由にしてくれていいから、大人しく待ってて」ヘンリーはうんうんと何度も頷いて見せる。
「うん、わかった。流華、早く帰ってきてね」
キラキラと輝く瞳で寂しいアピールをしてくるヘンリーは、私に向けブンブンと手を振った。
「……行ってきます」
一抹の不安を覚えながら、私は学校へと出かけていった。
登校途中、いつもの並木道を通りながら私は頭を悩ませていた。 いろんな心配ごとが次々に頭を駆け巡っていく。「わかってるだろうけど、私がいないからってヘンリーに手出したら駄目だからね」
斜め後ろに控えている龍の方へ振り向き、私は釘を刺す。
「……承知しております」
私は横目で龍の表情を盗み見る。
いつも通りの無表情。一体何を考えているのやら。私のいない間、できれば二人きりになって欲しくない。
昨日の惨事を思い出しながら、私はげんなりする。「では、私はこれで」
学校が近づくと、静かに龍は姿を消した。
龍は私の登下校に必ず付き添う。
これは龍と出会ってから、かれこれ五年間ずっと続いていた。他の生徒に見られるようなことはせず、学校が近づくと、ある一定の場所でいつも龍は姿を消す。
どうしても外せない用事以外は、私から片時も離れない。 離れているときでさえ、私のピンチのときは必ずどこからともなく現れる。途中、そんな龍のことをうざく思ったときもあったが、今や彼の存在は空気のようなもの。近くにいることを疑問に思うことすらなくなった。
ふと、考えることがある。
龍は私といて幸せなんだろうか、と。いつも私のことを考え、自分のことは二の次。
時には組のことより私を優先してしまう。龍はそれでいいのだろうか。
龍は優秀な人間だ。その頭脳も身体能力も人より秀でている。
組の中、いや堅気の中にさえ、彼より優れた人間を私は知らない。そんな彼が、私の下でただ私の面倒を見続ける人生……それでいいのか?
大きなため息とともに、私は机に突っ伏した。教室内では、皆楽しそうに友達とおしゃべりしている様子が覗えた。
生徒たちの賑やかな声が耳に届いてくる。朝のホームルームが始まるまでの間、皆思い思いに過ごしていた。
「る~か~! どうしたのっ? そんな大きなため息ついて」
親友、桜井(さくらい)貴子(たかこ)の顔が私の眼前に迫る。
私は驚いて顔を少し上げる。
貴子は綺麗にミックス巻きした自分の髪をクルクルと手で遊びつつ、可愛い笑みを浮かべている。
「ちょっと、朝から疲れちゃって」
「へー、何、何? どういうこと?」貴子は私が座っている椅子に無理やり自分のお尻を乗せてきた。私達は一つの椅子にお尻を分け合い仲良く座るという構図ができあがった。
彼女のつけている香水の匂いが鼻をかすめる。
甘くて女の子らしい香り……私には絶対似合わない。貴子はとことんマイペースな子だ。
それは彼女がお嬢様だからかもしれない。彼女の家は超がつくほどお金もち。
小さい頃から蝶よ花よと育てられ、俗にいうお嬢様気質になってしまったのだろう。 彼女に悪気はないが、どこか我がままで人の気持ちを考えられないところがある。 自分の思うように物事を進めてしまう癖があった。そんな彼女についていける者は少なく、貴子は中学の時、転校してすぐに誰とも打ち解けられず、早速ぼっちになっていた。
そんな彼女が目をつけたのが、これまた変わり者扱いを受けていた私。
私も家が極道ということもあり、周りからは浮いていた。
彼女は私となら分かり合えると思ったのか、貴子は私に懐き、擦り寄り、毎日のように絡んできた。
ああ、懐かしい。私も別に彼女のことは嫌いではなかったし、特に避ける理由もなかったので、貴子を遠ざけることはしなかった。
それからというもの、彼女は私の側を離れなくなってしまった。
事あるごとに、私の周りに現れ、付きまとう。私は貴子と付き合っていくうちに、彼女はすごく純粋で子どものような人なんだと理解するようになった。
とても正直で嘘がないから、一緒にいて楽だ。 人の顔色ばかり窺ったり、お世辞言ったり、悪口言うような人よりよっぽどいい。彼女の前では余計なことを考えず、ありのままの私でいられた。
そんなこんなで、貴子とはいつの間にか親友という関係になっていたのだった。
私はベッドの上で、深い眠りについていた。 時刻は、真夜中の丑三つ時。 ――ゴトッ、と物音が聞こえた。 ガバッと上半身を起こす。 え、今の音……何? 暗闇に神経を集中させ、耳を澄ませる。 何を隠そう、私はかなりの怖がりだ。 幽霊の類は超苦手。 真夜中、静寂、暗闇、物音。 こんなに怖い条件がそろっていて、何事もなかったように眠れるわけがない! 私はバクバクする胸を押さえながら、キョロキョロと辺りを見渡す。 けれど、月明かりに照らされた部屋は、見慣れた風景のまま静まり返っている。 特に変わった様子は、ない。「き、気のせいか……そうだよ、きっと気のせい」 無理やり結論づけると、さっきまでの恐怖をなかったことにしようと布団に潜り込んだ。 ――ゴトゴトッ。 さっきよりも大きな音が、部屋の中に響く。 ひぃー! 助けて、ごめんなさい! 恐怖が絶頂に達した私は、何に謝っているのかもわからないまま、ひたすら心の中で謝り続けた。 頭から布団をかぶり、目をぎゅっと瞑りながら、念仏のように「ごめんなさい」を繰り返す。 そして、ふと思う。 あれ? ちょっと待て。 今の音……どこから聞こえた? おそるおそる布団の隙間から顔を出し、音のした方向へ視線を向ける。 机の引き出し。 あの辺りから、だよね? その引き出しには、あの指輪がしまってある。 そう、ヘンリーから貰った指輪だ。 ごくりと生唾を呑み込み、私は意を決して布団から抜け出した。 そろりそろりと、机へと近づいていく。 机の前に立ち、引き出しをじっと見つめる。 震える手を伸ばし、恐る恐る取っ手に手をかけた。 ええい! 思い切って引き出しを開けると、その瞬間、強烈でまぶしい光が溢れ出す。 部屋の中は、昼間のように真っ白に照ら
しばらくすると、アルバートがヘンリーの様子を見に部屋へ戻ってきた。 音を立てないように、そっとドアを開け中へと入っていく。 ソファーの上では、ヘンリーが幸せそうな顔でスヤスヤと眠っていた。「おやおや、しかたない方ですね」 アルバートはヘンリーの体にそっと毛布をかける。 そのとき、ヘンリーの頬に涙の跡があることに気づいた。「ヘンリー様……」 起こさないように、アルバートはヘンリーの頭をそっと優しく撫でた。「苦しいでしょうが、頑張ってください。私がついております」 その寝顔を見つめながら、アルバート自身も流華たちとの日々に思いを馳せた。 懐かしく、騒がしくも目まぐるしい……。 しかし、とても充実した、幸福だった日々。「大丈夫、いつの日かまた会えます。その日を夢見て待ちましょう……」 そのとき、窓から射しこむ優しいひだまりと、暖かな風が二人を包み込む。 それは流華たちとの日々のようだった。 あたたかくて、幸せな―― 二人は幸せな夢を見る。 大好きな人のことを思い出しながら。 ◇ ◇ ◇ 「え?」 一人部屋にいた私は、なぜか誰かに呼ばれた気がして振り返った。 しかし、誰もいない。 当たり前だ、ここは私の部屋で、今は一人なのだから。 ふと、ヘンリーのことを思い出す。 彼らは元気で暮らしているだろうか。 そのとき、コトッと物音がした。 そこは、あの大切な“もの”をしまった場所。 私はそっと机の引き出しを開けた。 そこには、ヘンリーから貰った指輪が置いてあった。 小さな箱を手に取り、高鳴る胸とともに箱を開く。 可愛らしい指輪が姿を現すと、その指輪が一瞬輝きを増した。「……ヘンリー?」 もちろん返事はない。 でも返事をしてくれているような気がした。「お嬢ー、朝ごはんができましたよー」 下から龍の声が聞こえる。「はーい! 今行くー」 私は指輪にそっと触れると微笑んだ。「行ってきます」 元の場所へ指輪を戻すと、私は部屋を出て行った。 ヘンリー、私はあなたのことを決して忘れない。 だって私が時を超え、愛した人だから。 今は違う時代を生き、違う人を愛しているけれど。 きっと、またあなたと出会える。 何度も、何度でも、きっと…… 大切な思い出を
時は遡り、十九世紀後半―― 場所はイギリス。 王宮内にある一室から、王子の嘆きが響き渡っていた。「あーあ、つまんないっ」 ヘンリーはムッとした表情をしながら、やわらかそうなソファーにドカッと座る。 広い部屋には大きなベッド、豪華な机とソファー、いくつかの本棚が備え付けられている。 床に散乱しているのは、大きな動物のぬいぐるみたち。 これはヘンリーが寂しくないようにと、アルバートが配慮し用意したものだった。「ヘンリー様、いつまでもそのような態度ばかり……いい加減、大人になってください」 散らかった部屋を片付けながら、アルバートが辟易した様子でヘンリーに声をかけた。 流華と別れてから、ヘンリーはずっとこんな調子だ。 以前のように笑うことも減り、いつもつまらなそうな表情を浮かべている。 アルバートにはその理由がわかっていたが、ヘンリーのためにも流華のことを忘れさせようとしていた。「そうだ、ヘンリー様。 今日もシャーロット様が遊びに来る予定ですよ」 アルバートが嬉しそうな微笑みをヘンリーに向ける。「ふーん、あ、そう」 ヘンリーは相変わらずな仏頂面だ。 その様子に、アルバートは大きなため息を吐く。 持ってきたある物をヘンリーに見せつけながら言い聞かせた。「シャーロット様がお嫌なのでしたら、こちらの方はどうですか?」 それはお見合い写真だった。 とても綺麗な女性がにこやかな表情で映っている。 かなりの美少女だ。 そんじょそこらの町娘とは格が違う。 綺麗で艶やかで色気もある。王家に相応しい気品と美しさを兼ね備えた女性。 近隣諸国のどこかの姫らしい。 普通の男なら大喜びするだろう、しかし……。 アルバートはこっそり、ヘンリーの態度を観察する。 写真をちらりと見たヘンリーはすぐに顔を背けた。「&h
「ヘンリーたち、元気かなあ」 夜空の星を見上げながら、私はふとつぶやいた。 この世界とヘンリーの世界は繋がってはいないけれど、夜空に輝く星を眺めていると、想いは繋がっているような気がしてくる。 つい懐かしくて、ヘンリーたちの顔が頭の中に蘇った。 私のお気に入りの場所、縁側。 大きく伸びをして、空気を胸いっぱいに吸い込む。 気持ちがよくて、大きく長い息を吐いた。 龍が用意してくれたお茶を一口飲む。 温かくてほっとする。心も安らいでいくようだ。 はあ、幸せ。「あの人たちなら、きっと元気ですよ。 いつも煩いくらい騒々しい人たちでしたから」 隣に座っている龍が私に微笑みかけ、一緒に夜空を見上げる。 月明りに照らされた龍は、なんだか色気があって……その横顔にまた見惚れてしまう。 その視線に気づいた彼が、こちらを向く。 視線が交わった途端、慌てた様子で咳き込んだ。「お嬢、そんな見つめないでください……恥ずかしいので」 真っ赤になってしまった龍に、今度は私が噴き出す。「龍ったら、本当に見た目によらず乙女だねえ。可愛い」「なっ!」「あ、これ褒めてるんだよ。私だけに見せてくれる龍、嬉しいから」 私が可笑しそうにケラケラ笑うと、龍はたじたじという顔をしながら目を泳がせた。 愛しい人……私の王子様。 やっと気づけた、この気持ち。 嬉しくて、目を細めながら龍を愛おしく見つめる。「お嬢……その顔は反則です」 龍は顔を真っ赤にしながら、何かに耐えるように苦しげに眉を寄せた。 え? 私どんな顔してたの? 恥ずかしいっ。 顔が熱くなる。 きっと私も顔が赤くなっているに違いない。 恥ずかしくなってきて、私は龍から顔を背けた。
「あの、そのことで、あなたに話さなくちゃいけないことがあるの。 信じられないような話だけど、どうか聞いて欲しい」 私は意を決して、これまでに起きたヘンリーたちとの不思議な出来事を話していく。 彼は驚きながらも、黙って私の話を最後まで聞いてくれた。 話を聞き終えた彼は、ただ茫然と前を見つめている。「そんなことが……本当にあるなんて」「信じられないよね。私も自分の身にこんなことが起こるなんて、思ってなかった。 でもこれが真実なの。 透真君の気持ちは嬉しいけど……その気持ちは、前世からくるものなのかもしれない」 中村透真は俯き、しばらく考え込む。 そして、もう一度顔を上げた彼は私を見つめる。その顔が、ヘンリーの面影と重なった。 愛おしげに見つめるその表情……やっぱりそっくりだ。「この気持ちが前世のものなのか、僕のものなのか、本当のところはわからない。 ……でも、君を愛おしいと思う気持ちに変わりはないよ。 前世で幸せになれなかったのなら、今世で幸せになってはいけないの?」 中村透真は、懇願するような表情と瞳を向けてくる。 やめて、そんな風に見つめないで! ヘンリーにそっくりな顔と声と瞳で……。 私の中の何かがドクンドクンと苦しげに呻いた。 それに必死に抗いながら、拳を握りしめる。「っごめんなさい……私、好きな人がいるの。 ヘンリーやあなたのことはもちろん好きだけど、それ以上に好きな人。 如月流華として、愛する人ができた。 透真君にも、これから先そういう人ができるかもしれない。 前世の想いのせいで、その人への気持ちに気づけないのは……駄目だから」 私は誠心誠意、今の自分の気持ちを彼にぶつける。 前世の想いは、強力だ
学校が終わると、私は改めて中村透真に会いに病院へ向かった。 彼にも、どうしても話しておかねばならないことがある。 いつものように、龍は病室までついてくると扉の前で待機する。 不安げに龍を見つめると、彼は優しい眼差しを向け力強く頷き返してくれた。 うん、大丈夫。 私はしっかりと頷き返す。 病室の扉をノックすると、中から返事がした。 なんだか緊張する。 あの日、彼に助けてもらってから、意識がある状態で会うのはこれが初めてだ。「失礼します」 私は大きく深呼吸し、病室へと足を踏み入れた。 ベッドの上には、優しい笑みを浮かべる中村透真の姿があった。 彼の視線は私へとまっすぐに向けられている。 彼を見た瞬間。 心臓が跳ね、思わず足が止まった。 やっぱり、ヘンリーに似てる……。 私を助けてくれた命の恩人。そして、ヘンリーの生まれ変わり。「やっと、会えたね」 中村透真が嬉しそうに笑った。 なんだか……ヘンリーに言われているような気がして、胸が締め付けられる。 落ち着け、自分。 私は深呼吸してから、ゆっくりと彼の側へと歩みを進めた。「あ、あの、助けてくれてありがとう……ずっとお礼を言いたかった。 もう、体は大丈夫?」 緊張しながら、おずおずと彼に尋ねる。 すると、中村透真はニコッと可愛く微笑んで、元気だとアピールするようにガッツポーズをする。「うん、心配いらない、元気だよ。 でも……なんだか、長い夢を見ていたんだ」 「夢?」 ゆっくりと頷き、私を見つめ、彼は懐かしむような顔をする。「僕は王子で、隣国の姫に恋をした……」 中村透真は思い出を語るように、夢の内容を聞かせてくれた。 その話は、まさしくヘンリーと私の前世そのものだった。 もちろん彼の前世でもある。 もしかして、彼はヘンリーが現れ